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神戸地方裁判所 昭和30年(わ)710号 判決

被告人 ハーバート・ベルナップ

一九一五・一〇・三〇生 宣教師

主文

被告人を懲役参年に処する。

但し、本裁判確定の日から弐年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用のうち、証人山田清善(昭和三〇年一〇月五日及び同三四年六月一九日)、同酒井ヨ子(同三〇年一〇月二六日及び同年一一月一八日)、同中安英夫(同年一一月一八日及び同三一年三月二九日)、同植西ヒサ子(同三〇年一二月九日及び同三四年七月二二日)、同林いさゑ、同松村清子(三二年六月一四日、同年九月一三日、同年一〇月九日及び同三四年七月一日)、同吉野一枝(同三四年七月一日及び同月二二日)及び同大石トモ子(同三四年九月九日)に各支給した分は、被告人の負担とする。

理由

(被告人の経歴及び本件行為に至るまでの経緯など)

被告人は、アメリカ合衆国モンタナ州ライゲートで生れ、航空学校卒業後、航空会社の技術員として勤め、かたわらロスアンゼルス市所在の聖書学校に学び、アメリカ空軍の兵士として軍務にも服したが、考えるところがあつて宣教師となり、昭和二七年(一九五二年)七月来日し、熊本県牛深市所在の教会に勤めたのち、同二九年八月、神戸市葺合区宇川谷一二三番地に移り住み、その間同様日本で宣教に従事していたマボーン・ベルナップと結婚しその生計はもつぱら在米の協力者からの寄附によつて賄い、聖書の講読普及をするかたわら日本語学校に学び、一方昭和二九年九月頃からアメリカ軍人と日本婦人との間に生れた恵まれない混血児(主として黒人との混血の幼児)を預り、これに英会話その他の教育を施したうえアメリカ人の養子に世話するなどの仕事をしていた。

本件被害者植西鈞は、昭和二一年一〇月一七日、植西ヒサ子とアメリカ軍人(チャールス・ムーアーといい、右ヒサ子が大津市で同棲していた当時歩兵中尉という)との間に生れたが、右父であるアメリカ軍人は、鈞の出生前消息を絶ち、生母ヒサ子は鈞を約三年間養育したが、女手一つで養育に困り、その後は他に扶養を任せ、昭和二六年頃以降鈞は、児童相談所を通じ、奈良県生駒郡北倭村字北田原二三一二番地林いさゑ方で養育され、同地の小学校二年に進学し、海南市に居る母親との連絡がついてからは、時々母と往来し、また小づかいや着物などを送つてもらつていた。被告人は、知人から右植西鈞の境遇と所在とを聞き知り、同人を前記趣旨で引き取ろうと考え、同二九年一二月頃、前記林方を訪ね右の趣旨を申し入れたところ、林は、実母植西ヒサ子や児童相談所長とも相談し、同三〇年一月植西鈞の養育を被告人に依頼することとなり、鈞は同月二三日以来、前記被告人方に引き取られた。当時被告人方には、黒人との混血児吉野テルミ(当時四歳くらい)同チグサ(昭和二九年三月一六日生)及び持田ビクター(当時五歳くらい)の三人の幼児が養育されており、妻マボーンが主として英会話算数等を教えていた。

ところが、植西鈞は、夜尿の癖があり、被告人方へ引き取られてからも再三これを繰り返すところから、被告人は、その矯正策として、体罰を加える旨申しつけ、かつその実行として革バンドで殴打したので、鈞はこれを恐れ、またその環境になれ親しめなかつたせいか家出をすること三回に及び、そのつど連れ戻しては体罰を加えたが、夜尿の習癖は治まらず、被告人ら夫婦は、その取扱いに苦慮していたのであつた。

(罪となるべき事実)

昭和三〇年二月二三日、被告人は、平素のとおり日本語学校に出かけ、鈞は、妻マボーンから数学などを教えられていたが、午前一〇時半頃、便所に行く風を装い、すきを見て家出し、これを知つた通訳兼女中大石トモ子及び女中松村清子がすぐにその行方を捜し、しばらくして鈞が市電熊内町四丁目停留所東方の路上を東方に向つて歩行しているのを発見し、同女らは、帰宅をいやがる同人を強いて連れ戻し、洗顔更衣させたうえ、大石トモ子が鈞の手足を細紐で縛つて階下子供部屋に立たせ、昼食を与えないでおいたところ、被告人は、同日午後一時頃帰宅して昼食の際、妻及び大石トモ子から鈞がその前夜にも夜尿をしたことや、家出した顛末を聞いた。

そこで被告人は、食事後、かねて言いつけてあつたとおり植西鈞に体罰を加えるため、二階四畳の間に同人を連れて行き、革バンドで同人を殴打したのみならず、興奮のあまり、泣いて謝る同人をその場に転倒させ、その頭部を畳又は壁等の鈍体に突きあてる等の暴行を加え、よつて、硬脳膜下及び脳内各出血により、同日午後七時頃、前記被告人方において、同人を死亡するに至らせたものである。

(証拠の標目)

判示冒頭の事実は、

一、被告人の当公廷における供述

一、被告人の検察官に対する供述調書

一、証人マボーン・ベルナップの当公廷における供述

一、第六、三一回公判調書中証人植西ヒサ子、第七回公判調書中同林いさゑ、第一一、一二、三二回公判調書中同大石トモ子、第一三、三一回公判調書中同吉野一枝及び第二〇、二二、三〇回公判調書中同松村清子の各供述記載

一、奈良県生駒郡北倭村立北倭第四小学校長奥田武二作成の植西鈞の在学証明書(弁第八号の二)

によりこれを認め、

判示罪となるべき事実のうち、その前段判示の被告人及び植西鈞らの行動については、

一、被告人の当公廷における供述

一、被告人の検察官に対する供述調書

一、第一一、一二、三二回公判調書中証人大石トモ子、第二〇、二二、二三、三〇回公判調書中証人松村清子の各供述記載

一、証人マボーン・ベルナップの当公廷における供述

一、大石トモ子の司法警察員(第一、二回)及び検察官に対する各供述調書

一、松村清子及びマボーン・ベルナップの検察官に対する各供述調書

一、裁判所の昭和三一年九月二〇日及び同三四年九月九日付各検証調書

によりこれを認めることができる。

その後段の事実中、植西鈞の死因については、溝井泰彦作成の鑑定書と題する書面(以下溝井鑑定書と略称する)及び鑑定人大村得三作成の昭和三四年三月二五日付鑑定書(以下大村第二鑑定書と略称する)によれば、植西鈞の死因は、「外傷性硬脳膜下出血及び脳内出血」であることが認められ、同人の死亡時刻については、山田清善作成の死亡診断書並びに第三、二九回公判調書中証人山田清善の供述記載及び同人の検察官に対する供述調書、第一二回公判調書中証人大石トモ子の供述記載及び同人の司法警察員(第一回)、検察官に対する各供述調書並びに第二〇回公判調書中証人松村清子の供述記載を総合すると

前記二月二三日、夕食後松村と大石とが、寝かせてある鈞の顔色が異状であるのに気付き、すぐ大石が山田医師方へ電話でその旨を伝えて来診を求めたのが七時前後のことであり、山田医師がただちにスクターで五、六分を要する被告人方へ往診したこと及び診察の結果既に死亡していたことからして、鈞は、同日右時刻前後に死亡したものと認められる。

そこで右負傷の原因について審究すると、

(一)  司法警察員作成の実況見分調書添付の写真七ないし二三、溝井鑑定書、鑑定人大村得三作成の昭和三二年三月八日付鑑定書(以下大村第一鑑定書と略称する)、大村第二鑑定書及び第一一回、第二七回各公判調書中証人溝井泰彦の供述記載によれば、

植西鈞は、全身にわたり七十数個所の皮下出血及び擦過傷を受けており、右損傷は大体新しいものであつて、頭部とりわけ左頭頂部の損傷は「死亡直前ないし本件致死の動機の加わつた当時の受傷」であると認められる。

(二)  ところで、大石トモ子及び松村清子の前記各証言及び供述調書、第七回公判調書中証人林いさゑの供述記載、第一三回公判調書中アーサー・アスビルの供述記載並びに裁判所の昭和三一年九月二〇日付検証調書によると、

鈞は、被告人方へ引取られた昭和三〇年一月二三日以来、前示死亡当日までの間に、同年二月八、九日頃、同月一五日頃、同月二〇日及び死亡当日の同月二三日の四回にわたり、家出をしており、右第一回家出の際には、被告人方南側の高さ約二、七メートル余りの塀を飛び降り、当時びつこをひいていたこと及び第三回目家出の際には、被告人方便所の通風窓から抜け出すとき右耳後部に擦過傷を受けた疑いがあるが他の身体各部の傷害は、数個の擦過傷を除きすべて皮下出血であつて、とくにその臀部及び左右両下肢には明らかに帯状を呈した多数の皮下出血があり、かつ大村第一鑑定書中「植西鈞が出血性体質を有する小児であつたとは考え難い」との記載と押収してある革バンド一本(証第一号)の形状とを対比すると、被告人が右のバンドを使用して鈞に体罰を加えた事実を認めることができる。

(三)  そして、被告人の当公廷における供述、大石トモ子及び松村清子の前記各証言並びに各供述調書及び裁判所の昭和三四年九月九日付検証調書を総合すると

本件発生当日の昭和三〇年二月二三日鈞が家出したのち、大石及び松村が鈞を捜しだし被告人方へ連れ戻すとき、鈞がこれを厭がり、帰宅を拒み反抗の気勢を示したので、大石は、これを制するため平手で鈞の顔面をたたいて連れ戻した程であり、右逮捕の現場から被告人方までは、上り坂でしかも徒歩で約十分余を要する距離を自ら歩行して帰宅し、その挙動に異状はなかつたこと、右大石の平手打ちで鈞が一、二度鼻血を出し、すぐその場で拭きとつたほか他に外傷出血等のなかつたこと及び鈞は帰宅後自ら洗顔し上着を着替え、子供部屋で手足を縛られ立たされており、松村清子がこれをあわれんで鈞に対し「解いてやろうか」と言つたが、同人はこれを拒絶したこと、その後被告人が二階へ上ることを促したところ、鈞は覚悟をきめた様子で先に二階四畳の間へ上つていつた点などを考えあわすと、当日被告人が体罰を加える直前までには、鈞の身体に異状はなく、その挙動にも平素と異るところがなく、とりわけ前記死亡の原因たる身体の障害はなかつたものと認められる。

(四)  被告人と鈞とが二階四畳の間にあがつてからの動作については、これを目撃した第三者はないが、被告人は、その間の行動について検察官に対して

「私は鈞に対し、夜尿をしたり家を逃げ出さないと約束してあるのを違えたので、せつかんをするため二階に上れと命じ、同人の左手を私の左手で握りベルトを二つに折つて両端を右手に握つて鈞の尻をたたいた。かような方法でせつかんすることは自分の親の代からしている。尻をたたくについては、ズボンを鈞におろさせ私が殴つた。鈞は尻を少し動かした。たたかれるとき鈞は、前屈みになつており痛い痛いといつていた。どの位たたいたか覚えないが、たたき終つたので下に行こうとした時、一歩歩いたか二歩歩いたかその点は記憶がないが、彼は頭の右側を下にして倒れそして鼻血が出だした。鈞は、鼻血を出して倒れてから何も答えなかつたので、すぐに鈞を抱えて階段をおり、風呂場に連れて行き水で鼻を洗つた。その時鈞の顔色はまつさおであつた。」

と述べ、また、当公廷(第三五回公判)においては、

「アメリカでは子供のしつけをするのにスパンクといつてせつかんする風習がある。私は鈞との約束で今度悪いことをしたらパンツを脱がしてスパンクすると約束してあつたのでそれを実行したのであつて、柔い革バンドで尻をたたいただけで、他の個所はたたいていない。鈞は『痛い痛い』と叫んだ。それを下に居た妻や大石トモ子が聞いてないというのは奇妙である。私が部屋を去ろうとした時に鈞が畳の上に倒れた。」

と述べており、この間の事実につき、当時階下事務室に居た妻マボーン及び通訳兼女中大石トモ子は、二階での特別の物音、人声などは聞かなかつたと供述するけれども、マボーンは、被告人の妻であつて被告人に不利な供述をしないことが考えられ、大石トモ子は、山田医師或は植西ヒサ子らに対しても鈞の負傷の原因についてあいまいな陳述をしているのみならず松村清子の警察での取り調べに先だち同女に対し「余計なことを言うな」と口止めしている事実のあることなどからして、右両名の各供述は、これをそのまま信用することはできない。この点について松村清子は、検察官に対して、

「皆の御飯が終つたので、私は炊事場で洗物をしていると、二階で鈞さんがピシャピシヤとベルトでたたかれて怒られており、『先生もう逃げません、勘忍して下さいすみません』と泣きながら謝つている声が聞え、そのうちにどすんどすんという音が聞え、さらに先生のステンダと言う声を聞いて間もなく、二階から先生が鈞さんを抱きかかえて風呂場に降りてきて、私の使つている水道の水を早く止めてくれと、日本語で“早く早く”と大変真剣そうな顔でいうので、炊事場から風呂場をのぞくと鈞さんを抱えて水道の水でその顔を洗つているようであつた。」

と供述し、第二〇回、第二二回及び第三〇回公判調書において、終始一貫して、

「鈞は、先生に二階へ連れて行かれてから、ベルトでたたく音と、大きな声で泣きながら、『先生おしつこしませんから勘忍して下さい』と言つているのが聞えたが、しばらくして物を抛つたり物が落ちるようなドスンドスンという音がして、それから『ステンダ』という先生の声が聞えた。」

と供述している。これに、大村第二鑑定書中

「以上の損傷は、いずれも鈍体的外力作用によることは明らかで力が打撲的なり擦過的に働いたことに違いない。左頭頂部に鶏卵大の出血を起しているから、この部に相当力が加つたことは確定的であるとともにこの反対側に当る脳底に近い大脳脚被蓋部に出血する大なる可能性がある。その打撲傷は、手拳では無理かと思はれ、バンドではどうかというと表面に所見がなく、(大体は表面に剥脱をみる。植西鈞は頭髪も濃い方ではないようであるから一層そのように思う。)出血の形なり広さなども参酌してむつかしいと考える。むしろこうした損傷の発生原因としては、壁か畳に衝突する。つまり「払いごし」「腰なげ払い」「背負いなげ」などという動作でいわば畳の上に投げ落した(あるいはその時壁に当る)際が最も適当である。すなわち外力と体重とによつて発起するのである。この場合なれば、頭皮表面に所見がなくともよく対側打撃も起つて本件のような頭蓋内に出血を起すことも容易であり、打ち方によつては他の頭部の皮下出血も同時に起し得たものと思はれるのである。」

との記載を総合すると植西鈞の直接の死因となつた硬脳膜下及び脳内各出血は被告人が鈞に体罰を加えた際に同人の頭部を畳又は壁等の鈍体に突きあて生じさせたものと認められる。

弁護人は、「右頭腔内出血の成因が外傷性のものであることは確実であるが、それが手拳による打撃か、衝突、転倒によるものかこれを確定する解剖所見上の根拠がない。鈞は、高さ二、七メートルないし三メートルの塀から石畳の上に飛び降りた際、転倒したか、しりもちをついた時の衝撃によつて、頭腔内出血を来したものである」と主張する。そして、大村第一鑑定書には、「かような衝撃によつて脳内部に出血することは、頻度は少いが可能である」との記載がある。しかし、鈞の頭部顔面にはその前額に四個の頭皮皮下出血、頭頂部には三個の同皮下出血があり、そのうち左頭頂部の鶏卵大出血部に加えられた打撃が左硬脳膜下出血及び脳内出血の原因であると認めなければならないのに、被髪部頭皮外表に損傷がないこと鈞が塀から飛び降りてから電車道まで約一〇分間の距離を歩行し、大石トモ子らに捕えられ、坂道を引き返えし、手足を縛られて子供部屋に立たされ、松村清子が「解いてやろうか」と言つても、覚悟をきめたようすでこれを拒否し、被告人に体罰を加えられることになつてから、被告人に先行して二階に上つて行つたこと、それまでは鈞の頭部顔面には異状がなく、挙動にも何ら異つた点が認められなかつたものが、被告人の体罰により、にわかに意識を失い結局さめることなく死亡したこと、その死体の顔面には、左上第一門歯が歯根部において歯槽から遊離し、下唇部に咬傷ができていたことから考えて、右の頭腔内出血は、家出当時における尻もちの衝撃や転倒による衝撃からではなく、被告人の暴行によつて生じたものと認めなければならない。顔面の負傷について、被告人は、山田医師、棚田一郎らが気付かなかつたからさような負傷はなかつたと主張するけれども、溝井鑑定書、実況見分調書添付写真、松村清子の検察官に対する供述調書、植西ヒサ子の証言によつて、鈞の額面にも右のような損傷があつたことが明らかである。弁護人の主張は採用できない。

以上のように観察してくると、被告人は、判示罪となるべき事実後段記載のように、植西鈞に暴行を加え傷害しよつて死に致したものと認定しなければならない。

(法令の適用及び量刑について)

被告人の判示行為は、刑法第二〇五条第一項に該当するところ、その量刑について考えるに、被害者植村鈞は、父に捨てられた混血児であり、母ヒサ子も内縁の夫を持ち、四歳になる子もできている。客観的にみれば不要の子のようではあるが、神の子として独立の人格を尊重されなければならないことはいうまでもない。また、親子の情においても、鈞は休暇には母の許へ行き、母も小遣などを送り、その情をつないでいたのであつた。被告人方へ引き取られてから、夜尿症矯正のため体罰を加えられ、恐いから逃げる、またたたかれるというぐあいで、第三回の家出のときは、里親の林いさゑの来る日に三宮駅へ先廻わりして、死の予感をうつたえ、「殺されるから連れて帰つてくれ」と泣いて頼んだ。その三日後被告人のために薄幸の生がいを終つた運命の子である。

右のような暴行が、被告人の主張するように、矯正の目的に出たものとしても、児童に体罰を加えることは許されないところであるから、被告人の行為は、公序良俗に反し、社会通念上正当行為として是認されるものでないことは、多言を要しないのである。神に仕える者が神の子を死に致したのは、罪責重大であるといわなければならない。

しかし、被告人は、興奮しやすい性質のようで、それが数回の家出に興奮した点、宣教師として来日して以来、その聖職に従事するかたわら、小児マヒによつて身体障害を有する妻マボーンとも協力して不遇の混血児を養育し、その一、二はアメリカ人家庭へ養子として周旋し、所期の目的の一端を遂げている事実も窺え、その社会奉仕的な功績も軽くないものと言えるのみならず最近に至り被害者の遺族植西ヒサ子に対しても慰藉の措置を講じて遺憾の意を表していることが認められるなど諸般の点を綜合して主文第一項の刑に処し、右情状刑の執行を猶予するのを相当と認めるから同法第二五条第一項第一号を適用し主文第二項のとおり右刑の執行を猶予し、訴訟費用は、刑事訴訟法第一八一条第一項本文に則り、主文第三項のとおりその一部を負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 山崎薫 田原潔 正木宏)

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